私がここでいうのは単なる法律や規則ではなく、所謂社会規範のことである。
 人が生きて行くということは、社会生活を営むということであり、互いに生き易い社会というのは、結局互いのエゴを自覚し、互いが我慢できる限度を設定した上に成り立つということであろう。
 それにしても、今程ルールを守らない人間が多くなったことは、かつて無かったのではないだろうか。これは年齢の高低、老若に関係ないように思われる。
 強いて言えば、後は比率の問題であろう。
 とてものことに、「今の若い者は」などと言えたものではない。
 ルールは家庭の中にあり、学校にあり、そして社会にある。ルールを守ることで、社会は円滑に運営されて行く。しかし、日常、身近な所で目につくルール違反は、枚挙にいとまがなく、しかも、目に余る実態が増えていることはご承知のとおりである。
 子供連れの母親が、平気で赤信号を無視する。
 自転車が右側を走ってくる。「車は左、人は右」という交通標語をご存知だろうか。
 それ程多いことではないが、車同士が信号無視、又は一時停止しないで事故を起こし、人が死傷する。走っている車が、方向指示を出さない。曲がりながら出しても意味がない。
 十代の無免許運転による事故も相変わらず増加していて、自分が死ぬのは自業自得だが、他人を巻き添えにするのは立派に殺人である。
 こんなことで死なれた親は、たまったものではない。駅のホームもタバコの吸殻だらけであり、走っている車の中から火のついた吸殻や塵、空き缶を平気で道端に捨てて行く。
 従って、幹線道路の路側帯は、これらの散乱で目を覆うばかりの惨状である。
 ここに列挙したようなことを、平気でやる人間が多いということは、これからもこういう馬鹿が家庭を持つことによって、悪しき拡大再生産が続くということになるのだろうかと思うと、何ともやりきれない空しさに襲われる。
 そうは言うものの、いつでもどこでも言うことだが、本来子供というものは、素晴らしい可能性を持っているものであり、そしてそれは正しい教育によってのみ、良い結果を得られるということは言うまでもない。
 道場で出会う子供達は、入門したばかりの4歳児でも、道衣の紐や帯を直してやったり、時には長く伸びた爪を切ってやり、「他人に何かしてもらったら何て言うのかな?」「ありがとうございました」と言ってくれる。
 「屑箱は何のためにあるのかな?」という問いかけをすれば、どんな子供でも塵をそこら辺に捨ててはいけないと理解し、実行するようになる。「歩きながら物を食べるのは、犬や猫と同じだよ」と教えれば、子供は自分が人間であることを自覚してくれる。
 つまり自分は犬や猫と同じだとは思わないということであり、ここが大切な所である。
 その意味で、親がどのような子育てができるかということは、どうしてもその親自身がどういう生き方をしているのか、又はどう生きようとしているかによって、異なってくるということである。
 子供は親を選ぶことができない。
 そして文字どおり、親の一挙手一投足を見ながら育って行く。
 親はその子供にとって、人生で最初の教師である。問題は、その親が最良の教師たり得るのか否かであり、しかも本当の子育ては、5歳までで終わってしまうということである。