驚異の鍛練の果てに

 大正14年に沖縄県・名護市に生まれた祝嶺正献氏は、琉球国王家の血統を受け、また祖父は法律家、父は教育家という家庭で育った。
そんな祝嶺氏と、空手の出会いは、同じく教育者である富名腰義珍と親交のあった父のすすめによるものであった。
瓦35枚割りに挑戦する祝嶺氏。昭和29年10月、神田の共立講堂において、日本テレビ主催の空手道演武会が開催され、小西康弘(神道自然流)、坂上隆祥(糸す会)、金城裕(研修会)、西山英峻(日本空手協会)、糸川寛喜(剛柔流)、赤嶺至冠(剛柔流)などのそうそうたるメンバーの中でも祝嶺氏は、手刀による瓦35枚の試割を成功させた。
 祝嶺氏の最初の師匠は、古流唐手の使い手・佐渡山安恒であった。当時、祝嶺氏は8歳。あくまでも稽古よりも虚弱であった祝嶺氏の体質改善が目的であった。だが、その鍛練は凄まじかった。
 仏桑毛の花で垣根を作り、それを飛び越していくものだ。仏桑毛の苗木は約25cm程度だが、その成長は極めて早い。一日約1cmずつ成長する。毎日伸び続ける仏桑毛の成長力と、それを飛び越す力=跳躍力との競争であった。言い換えれば自然と人との闘いでもあった。
 そして自然との戦いに勝利した祝嶺氏は、屈強な肉体と、跳躍力を身に付けることとなる。驚くべきことに成人になる頃にはその跳躍力は、約2メートル近くにまで達したという。
次に祝嶺氏が師事したのは、岸本祖孝老師であった。
岸本老師は、若い頃から「掛け試し(実戦)」で腕を研き、自らの空手を練り上げた無類の実戦武者であった。
 「剛柔流も、上地流も体を固めるのみ。それではケンカはできない。鍛えられぬ目玉や、金的を素早く打ち抜くこと。急所を打ち抜く空手が最強だ」と考える岸本老師は、剛よりも柔に重きを置き、より迅速に動く実技・より正確に施す実技・より収縮を用いる実技・より急所を狙う実技を祝嶺氏に指導した。もちろん、その稽古は、無言・模倣・理屈抜きであり、老師が首を縦に振るまで続けられたという厳格な指導法であった。
まさに「一技一事」−−数多くある技の中から、自分にあったものを選び、それを極めよ、ということである。
ゆえに祝嶺氏が13歳から、約5年間で学んだ形はたったの3つ。ナイファンチ・公相君・バッサイのみであった。特にナイファンチは型の真髄ということで田んぼに膝まで沈め、約2年間がこの型の習得のみに費やされたという。