礼は、人が人として生きて行く上で最も必要且つ大切なものである。
 「親しき仲にも礼儀あり」と言うように、たとえ夫婦、親子、兄妹の間でも、いや日常の生活を共にする家族であるが故に、殊更に礼は必要であると言わなければならない。
 所謂、折り目、けじめということである。
 朝起きて、顔を合わせた時に、「お早うございます」と明るく言えば、その日一日気持ちよく過ごせるというものある。
 会話にはきっかけが必要であり、挨拶はそのきっかけになる。私にも通算12年余のサラリーマン生活があったので、体験として語ることができるが、新入社員の10人の内4人は教えないと挨拶ができなかった。
 今はもっと多いのではないだろうか。
 こういう人は、勿論、自分が気付かなくてはならないのは当然だが、この場合本人よりも、この人を育てた親に問題があるのは言うまでもない。こういう親に育てられたおかげで、大切な社会人としての第一歩で、「礼儀知らず」とか「非常識」とかのレッテルを貼られてしまい、先輩のいじめをうけたり、仕事をうまく教えて貰えないとかいうことで、つまずくことになる。大学、高校で体育会系に属した人や、武道の道場で指導を受けた人が、割合い社会人として受け入れられ易いのは、すでに上下関係の訓練ができていて、とりあえずの挨拶やマナーが身に付いているからというのは、よく聞くところである。人間は、残念ながら教えられないと解らない。だから「氏より育ち」という言葉があるのだと思う。
 それには先ず、大人が、親が、教師が、そして先輩がその範を示さなければならない。
 礼儀というものは、形が伴って初めて礼になる。そっくり返って挨拶されても素直に応える気にはなれない。
 子供が「おやすみなさい」と言っているのに、寝っ転がってテレビを観ながら「おお、おやすみ」などと、言葉だけの挨拶をしてはならない。
 必ず一度座り直し、姿勢を正して応えるべきである。指導者の方々は、当然その場での礼儀には厳しいと思うが、私も大人、子供に関係なく、道場の出入りには必ず姿勢を正して応えることにしている。
 言うまでもなく、指導者は技術だけでなく、礼の形を身をもって示さなければならない。
 それらの指導は、教師は勿論、誰よりも親にこそ求められるものであろう。
 「形から入って心に至る」という言葉をご存知だろうか。何も意味が解らなくても、子供達は練習の前後に正座し、黙想し、道場訓を斉唱し、挨拶を交すという繰り返しの中で、自然に礼の持つ意味と大切さを理解し、身に付けてくれるものである。